私の乳がんが発覚するまで

私が体に違和感を覚えたのは、
3番目の子が3歳になった2009年春。
我が家では「三つ子の魂百まで」が家訓のため、
ようやく保育園に通い始めた頃で、
それまでなんだかんだ母乳を与えていました。

家事万能の夫と祖父母に助けられながら、
フリーで仕事も続けていて、
理解あるクライアントのところへは、
乳飲み子同伴で打ち合わせに行くことも。
超多忙で常時睡眠不足でしたが、
体力と気力には自信がありました。

異変は断乳後間もなく

高齢出産ながら、
最初の子から3番目までほぼ100%母乳育児だったで、
乳腺炎とは付かず離れずの間柄。
いつもどこかにぷよぷよグミのようなしこりがある状態が長く、
その時も乳腺炎を疑いませんでした。

ただ、今思えば3番目の子は母乳が目詰まりすることが多かった気もします。

なので、異変を感じたのは乳房ではなく、
右腋の下のリンパ節。
なんだか身体が火照ったようにダルく、
特に腋の下のリンパが熱を持っています。

それでも、副乳が腫れてる?乳腺ケアが必要かな?
位に思っていて、念のためかかりつけ医を受診したのでした。

かかりつけ医の診断は「要精密検査」

ところがいつも優しい診療所の先生が、
厳しい表情で勧めたてくれたのは、「即・精密検査」。
あっという間に紹介状を書いてくださって、
3番目を出産した大学病院に行くことに。

実は3番目を産んだ時、
あの秋篠宮紀子さまも罹患された「前置胎盤」での出産で、
たまたま高齢だからと選んだ大学病院で、
帝王切開+子宮全摘出という大手術を受けていたのでした。

その時は「全前置胎盤」というハイリスク出産だったため、
予定日1ヶ月前から自己血を貯血するために措置入院。
更に貫入胎盤がうまく剥がれず2L近く出血しながらの出産で、
ずいぶんお世話になった馴染みの病院でした。

(実はこの病院、最近までテレビを賑わせていたG大病院なのですが、
この時の産婦人科の担当医、執刀医、そして特に看護師の方々は、
本当に素晴らしい方ばかりでした。)

出産前から退院まで都合1ヶ月半以上を過ごし、
生まれた子もそのまま小児科に通いましたから、
それはもう勝手知ったるMy病院で、
ただフロアが違うだけの乳腺外科での診察は、
「乳腺炎」を疑わない私でした。

即日細胞診検査の衝撃

ところが触診をしたあとの主治医の判断は、
そのままエコーを使っての細胞診断。
終始難しい表情で、「えっ、えっ!?」と戸惑う私に、
細かい説明はしてくれません。

「乳腺炎ではないのですか?」と聞いても、
「そうですね…」とあっという間に暗いエコー室に横たわらされ、
インターンに取り囲まれて手足を押さえられ、
注射器で細胞を採取されました。
その痛さと尋常ではない雰囲気に、
呑気に構えていた私は一気に奈落の底に突き落とされた気持ちになりました。

「ここまで検査するということは、悪性の可能性があるのですか?」
痛みに耐えながら聞く私に、主治医は
「そうですね…」
言葉少なでしたが、十分な衝撃でした。

乳房にシコリは認めれられず、それでも…

この時私は46歳、
子供は上から11歳、8歳、3歳で、
間ほとんど授乳をしていた関係で、
最後にマンモグラフィを受けたのは5年は前のことでした。

この時もはっきり乳房にしこりがあるとは言われず、
それだけに大きな衝撃と不安を持って病院を後にすることになりました。
診査結果は1週間後。
それまでの1週間は、私にとって数年分にも感じるほどの、
激動の1週間となりました。

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