ぶどう畑の小さな癒し湯と農家レストラン

自然農法研究会の塾長となった人は、農薬も化学肥料も使わないぶどう農園を一人で開墾した、地域ではちょっとしたカリスマでした。ぶどう園を核にしたテーマパークの建設を夢見ていて、程なく敷地内に温泉を掘り当てて大工さんと二人で日帰り温泉を作り、自然農法研究会の野菜をメインにした農家レストランをOPENさせました。周辺には小さな手作りパンや手打ちそば屋、雑貨屋も開店し、こぢんまりとした買い物小道もできました。なによりぶどう園が見渡せる見晴台が素晴らしく、露天風呂も備えた温泉はその名も「天地の湯」。源泉掛け流しの隠れ家的な温泉として紹介されるようになりました。

レストランのOPENで自然農法研究会も忙しくなりました。週2回、会員たちは丹精込めた野菜を納品しに来るようになり、納品書や請求書は私が預かって、毎月勉強会の際に支払いをするようになりました。OPEN当初は、このレストランはバイキング形式の食べ放題だったため、それはお客様で賑わいました。周辺に大きな観光施設のないこの地で、とても期待された施設のOPENで、これが2010年の秋だったのですが、そのたった半年後にあの東日本大震災が起こってしまうのでした。

東日本大震災と放射能汚染の2次災害

その日も私は山の分校の職員室で一人で事務仕事をしていました。経験のないような大きな揺れが2回、一回目は船に乗ったような揺れで大きく足を開いて24インチのiMacを支えていましたが、2回目はPCは机に伏せて凌ぎました。程なく停電が起こり、通信手段は携帯と情報はTwitterのみになりました。自宅から「分校は倒れてないか!?」と旦那が心配して電話してきましたが、平家の分校は軋んでモルタルの壁に亀裂が入っただけで、無事でした。

自宅に戻ると、母屋の屋根瓦が落ちていました。義父は韓国に旅行中で、成田に降りられなくなり静岡から1日遅れて戻ってきました。

G県の最大震度は5+。海からも遠いため、大きな被害はなかったのですが、大変だったのは山沿いが「放射線量ホットスポット」になってしまったことです。首都圏近郊の生鮮野菜の供給地だったG県は、この震災の第2の被災地といっても良いほど、その打撃は後まで尾を引きました。私たち自然農法研究会の会員も、ぶどう園のレストランの運営も大打撃を受けました。

隣市の自然食品店の知人は、自分たちでロシア製の放射線測定器を購入して、自然農法の生産者の野菜の測定を始めました。うちの旦那も、猛然と放射能の勉強を始めて会で勉強会を開き、「過剰に恐れる必要はない」と説いて回りました。けれども、元々安全や安心な食材に対して強い関心のある人たちが顧客だったため、その顧客離れは深刻でした。私のようながん患者の受ける医療被曝の方がよほど強い放射線を浴びていて、ゲルマニウム温泉には喜んでつかるのに、人々は小さな数字に敏感でした。

やっと軌道に乗った会の運営も、小さな温泉と農家レストランも、大きな災害の前になすすべがありませんでした。





スポンサーリンク