公務員を辞めて「百姓」になった旦那と都会育ちの私

G県に来る前は、東京で暮らしていました。主人はG大大学院出の国家公務員(旧大蔵省)で、都心の公務員宿舎に暮らしていましたが、上の子が4歳の時に、「俺は百姓になる!」と宣言して公務員をさっさとやめ、実家に戻って参りました。

農家の長男なのは承知の上で結婚したので、想定の範囲内だったのですが、両親ですら公務員を辞めて帰ってくるとは思っておらず、孫との同居で嬉しいやらびっくりやらで、複雑な心境だったと思います。義理の父も農家とはいえ兼業農家で、普段は東京の会社に勤め、(当初はG県から始発電車で通う日々だったそう)週末夜遅くに帰って来ては、ライトを点けながら田畑をトラクターで耕すという生活だったそうなので、なにも辞めなくても、というのが本当のところ。

けれどもダンナは嬉々として農薬・化学肥料を使わない、果ては耕さない不耕起栽培を始めて、義父の農法とは一線を画した、新たな農業を独自に始めました。

私もこちらに来た当初は物珍しさから、ガーデニングの延長で好みの野菜を育てたり、近くの直売所に出荷したりを見よう見まねで行っていました。
義父のお米もほとんど減農薬に近い耕作方法だったので、ラベルを作って東京の友人に買って貰ったりしていました。

なにをするにも自分のやり方でないと気が済まないダンナは、農業をする時も同じで、およそ人と関わりを持つタイプではなかったのですが、2008年頃、いそいそと農業関係の集まりだと言って出掛けていく様になりました。それが後に私が事務局を務める様になる農業団体で、当時は地元の新聞にも取り上げられ、塾長はその後市長に当選するという、ちょっと熱い団体でした。

私はその翌年に乳がんが発覚し、携わっていた仕事も調子が悪く、フェードアウトした様な状態でした。自然に囲まれ、身体には良いはずの環境にもかかわらず、都会育ちの私には思い通りにならないこともやはりあり、自分の置かれた状況を受け入れられないでいました。

例えば我が家のすぐ前の家は養豚業を営んでいて、夏場の匂いはそれは筆舌に尽くしがたいもので、誰もが喜んではいないけれど、昔はどの家も多少の家畜を飼っていたので、文句は言えない状況でした。私は「目の前の状況は自分のしてきたことの表象だ」という誰かの言葉を毎日唱え、自分の仕事場を作る日だけを夢見て耐えていました。(耐えきれずにベランダで叫んだことも…)

当時すでに近所で養豚業を営んでいる家はその家一軒で、その家は2009年正月の松の取れた頃、母屋が火災で全焼してしまいました。思えばそれは私の乳がんが発覚した年。目の前で燃え盛る隣家をまだ3歳にならない末っ子に見せない様、背を向けて抱きかかえて消火活動を見守りました。自宅から隣家まで10m足らず、風向きが逆であったら、我が家もろとも焼け落ちていたのは間違いありません。義父も諦めたと後に語ったほどです。

癌治療のために自然の恵みを生ジュースなどでいただくうちに、抵抗するのはやめて、まず受け入れる気持ちになっていきました。なにより、自然に生かされている、傲慢だった自分にも気づかされていきました。

朝起きたら、大量の野菜ジュースを作っていただく毎日は、それまでの強引なペースでは出来ない、ゆったりした時間でした。抗がん剤治療も始まり、投与直後3日は使い物にならない自分。俗世から切り離された様な日々に、農業団体の事務仕事に人手が足りないことが耳に入ってきて、自然と興味がそちらに移っていきました。

それは自分にとって、この移り住んだ地に受け入れて貰うための儀式の様な、奉公の様な務めの時でした。

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